第94回研究例会 of 韓国・朝鮮文化研究会

 第94回研究例会

 運営委員会での検討の結果、対面とWeb会議サービスのZoom上でのハイブリッドにて開催しました。


日時:2025年12月13日(土曜日)15時~18時

開催方法:対面会場(発表者と運営委員のみ)+Zoomミーティング

発表者①:宮崎善信(長崎外国語大学)

題目:【史料紹介】フランス海軍砲艦リンクス号艦長フルニエ中佐によるデュプレ提督宛て報告書 — 1880年におけるフランスによる対朝鮮国交樹立に向けた調査について —

(報告書原題)
Mission de Corée à bord du “Lynx”, le 24 Juin 1880 à la mer
Rapport du Capitaine de Frégate Fournier Commandant la Canonnière “le Lynx” adressé à l’Amiral Duperré


 本報告では、フランス海軍フルニエ中佐(François Ernest FOURNIER)が1880年6月、艦艇で釜山を訪れ、当地に駐在する日本領事を介して朝鮮官憲に公文書を伝達しようと試みた一件に関連し、フルニエ中佐本人が作成した報告書を紹介したい。

 さて、このフルニエ中佐による朝鮮訪問は、アメリカ政府が他の列強に先駆けて朝鮮との国交樹立を図るためにシューフェルト提督(le Commodore Shufeldt)を派遣したことが直接的な契機となっている。フルニエ中佐の朝鮮派遣の一ヶ月前、すなわち1880年5月、駐日フランス臨時代理公使ドゥ・バロワ(de Balloy)がシューフェルト提督の朝鮮派遣を受け、中国ならびに日本の海域を管轄するフランス分艦隊(la Division Navale des Mers de la Chine et du Japon)のデュプレ提督(l’Amiral Duperré)に対し、フランス艦艇を釜山等に派遣し、シューフェルト提督が実際に果たす使命が何なのかを調査するよう要請している。早速、デュプレ提督は砲艦リンクス号(Lynx)艦長のフルニエ中佐に同任務を命じた。

 ところで、フルニエ中佐は朝鮮に向かう途上、新たに駐清フランス公使として赴任してきたブーレ公使(Bourée)を天津まで送ることになるが、その際、ブーレ公使から別の任務を与えられる。それは、前年に清国直隷総督李鴻章が書簡を通じて朝鮮高官李裕元に対して行った勧告、すなわち欧米列強との国交樹立を通じてロシアや日本を牽制するように促したことが朝鮮政府にどのような影響を及ぼしているのかを調査することである。こうしてフルニエ中佐は任務の途に就き、1880年6月8日に天津を出港、一旦長崎に立ち寄ったものの停泊中のアメリカ艦ティコンデロガ号(Ticondéroga)とリッチモンド号(Richmond)からは何ら情報を得られないまま、16日に釜山に到着し、ブーレ公使から託された朝鮮礼曹判書宛ての書簡を東莱府使に渡すべく日本領事館の近藤真鋤領事に仲介を依頼するも、東莱府使からは受理できない旨を記した文書を入手し、18日に釜山を出港、神戸を経て24日に横浜に到着した。任務を終えたフルニエ中佐はデュプレ提督に詳細な報告書(※本例会で扱う報告書)を提出したが、同報告書はバロワ臨時代理公使とブーレ公使にも送られ、さらに各公使がパリの外務本省へ送信する公信にも添付された。

 結局、朝仏条約の調印は1886年まで待たなければならないが、フルニエ中佐の朝鮮派遣は朝仏国交樹立に至るまでの重要な一過程と位置づけることができよう。そういう意味においても、フルニエ中佐の報告書の史料的価値は高いといえる。



発表者②:孫長熙(大阪大学博士後期課程)

題目:帝国の解体と国民国家への縮小・再編に伴う忘却と排除 −「連絡船は出て行く」から「連絡船の唄」への変貌を中心に

 1937年に植民地朝鮮で発売された「연락선은 떠난다(連絡船は出て行く)」は空前のヒットを記録し、同曲でデビューした張世貞(1921-2003)は一躍有名歌手になった。「連絡船は出て行く」のヒットの背景に、関釜連絡船などで多くの朝鮮人が日本へ渡った植民地時代の状況があったことは想像に難くない。

 1951年、この曲は戦後日本で「連絡船の唄」というタイトルで菅原都々子(1927-)によって吹き込まれ、ヒットした。植民地時代に連絡船に乗って渡日した在日朝鮮人にとって、「連絡船は出て行く」は故郷の肉親との別れを象徴する歌だった。また、日本の敗戦によって植民地朝鮮から引き揚げた在朝日本人も、朝鮮で聴いた「連絡船は出て行く」を覚えていた。ところが、当時の一般的な日本人は「連絡船の唄」を「日本の流行歌」として受容していた。このように、敗戦直後の日本社会には「連絡船は出て行く/連絡船の唄」をめぐる記憶の溝が存在していたと言える。

 それから3年後の1954年には、「連絡船の唄」を発売したテイチクレコードが『連絡船の唄』という「歌謡物語」を制作した。朝鮮戦争の初期の1950年8月を舞台としているこの物語には、連絡船に乗るために釜山へ向かう日本人男女(久美子、良夫)と、北朝鮮の人民軍将校になってその二人を連行・処刑しようとする久美子の兄・哲雄が登場する。「連絡船は出て行く/連絡船の唄」をめぐる戦後日本の「記憶の溝」と歌謡物語『連絡船の唄』の内容は、戦前の帝国から戦後の国民国家への縮小・再編に伴う「忘却」と「排除」を窺わせるものだった。

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